『京都イマジナリー・ワルツ』横浜公演(2022)レビュー
共に踊ることの重心、信楽
カニエ・ナハ
公開日:2023年1月20日
その日は雨が降っていたように記憶していたのだけど、ちがったかもしれない。あるいは雨があがったあとだったのかもしれない。雨がふると、ひととの距離感がかわって、ただでさえむつかしいと感じる、とりわけ2020年以降には、ひととの距離のとりかた、計りかたが、またわからなくなって、それにくらべると横浜駅からSTスポットまで向かう道のりなどは、ずいぶんと容易く、からだで覚えているというような、あるいはその道が、道すじがわたしを覚えているのかもしれなくて。
上演を待っている間奥の壁に投影され、流れている映像、事前に家でも見ていたのと同じものだったかもしれない、松本さんが京都で、鴨川に這入って、あるいは街中で、横断歩道で、ワルツを踊っている、一人で。一人で、といま記してみたものの、ほんとうにそうか、と立ち止まる、そもそも、ワルツを一人で踊るということができるのだろうか、たとえ一人でも。あるいはワルツに限らず、あらゆるダンスは。一人で踊っているように見えても、誰かと、何かと、踊っているのかもしれなくて……ということを考える、この公演を見たあとでは。
ダンスにしろ演劇にしろトークショーにしろ、開演前の時間というのは妙といえば妙な時間で、複数の、多数の他者が、それぞれの時間をもちよって、ひとときここに集って、それぞれの時計を、しばしこの時空間にあずけて、これから始まる何事かに委ねようとしている、その、多数の時計の、それぞれ進み方、進む速度の異なる針を、調整するための時間のようでもある。
あるいは水。それぞれのもちよった水を、そのさざなみをそろえていくような、流れをととのえていくような、そのような時間としての、開演前の、それぞれの水を、すませていくための。
映像のなかで鴨川に松本さんが這入ってワルツを踊っている。川、あるいは川のかたわらもまた、時間の流れが異なっていて、川というのは原初の映像なのだとおもう。だから映像(川)の映像を見ているようなきもちになる。松本さんは鴨川とワルツを踊っているというふうにも見えるし、鴨川が記憶している京都の古い記憶と踊っているともいえるし、映像のなかの川(映像)がわたしたちにもたらせている、ここまで流れこんできた記憶と(この時点からすでに)踊っていたのだとも、いまふりかえるといいうる。
その映像は、そうだ、公演の前の日あたりに送られてきたリマインドメールにリンクが貼られていて、いまそれを再生してみる。と、突然に蝉の音(ね)が。鴨川の水面が。蝉の音が鴨川の水面を揺らせているように見える。松本さんが見えない誰かと、あるいは川と、川面と、水と、さざなみと、踊っているように見える。あるいは蝉と、さんざめく日差しと、たゆたう木洩れ日と。松本さんが踊っているので風景が踊っている。そのようにしていま、わたし(と、それから開演を待っているわたしたちと)の意識も踊りへとじょじょに誘われている。
映像のなかで時間というものがあらためてよく見えるように感じたシーンがあり、はっとする。川の流れのなかを川下のほうへと松本さんがワルツを踊りながらくだっていく、その後ろの川辺の路をランニングしているひとがすごい速さで横切っていく、そのひとが画面左手に見切れるとほぼ同時に松本さんも画面左手に見切れて、しばらくの間画面には川と川辺の風景と、あと音声としての蝉の音だけが残されて。それは十秒かせいぜい二十秒ほどだったとおもうけれど、永遠のようにも感じる。画面が川にみちみちて。それまで気にしていなかった川辺の草だったり、石垣の石だったり、風の時間も見えてくる。もちろん蝉の時間も聴こえている。あっというまに過ぎ去っていった、ランニングしているひとの時間(の残像)も。もちろん松本さんの時間も。松本さんの踊っているワルツの時間も。それらに思いを馳せていると不意に、おもいがけず、カメラが左に移動して、それは時間を早送りしているのか、巻き戻しているのか、未だ、あいかわらず、川で、川と、川を、ワルツを踊っていた松本さんをとらえて、映し出す。
記憶も川なら、記録も川で、文章というのもつきつめていくと川だとおもう。おそらく、この時点でこのまちにまつわる、このまちの、このまちと、ワルツにまつわる、たくさんの情報が松本さんのなかに這入っていて、それらをじっさいに記憶している、川に実際に身体を浸し、足をふみいれ、手でふれることで、記憶を身体に、松本さん自身の水へと、沁み込ませていたのかもしれない。
そして松本さんが踊ることで、鴨川がワルツを、ワルツを踊っていたひとたちを、そのころのことを思い出している。
巨大なダンスホールの前で踊っている画面に切り替わる。ダンスホールが松本さんの身体を通してそこでかつて踊られていたダンスたちの記憶を回想している。
街なかで踊っているシーンでは、横断歩道を踊りながら渡っていて、道路というのもたぶん一つの川で、その境界を、束の間の時間を、ワルツを踊りながら渡っていく。このとき信号も横断歩道もなにかの喩になっている。松本さんのダンスが風景を喩に(つまり詩に)変えていく。
それにしても街なかでワルツを踊っているひとがいるのにみんなそれほど気にしていないように見えるのは、踊っている松本さんの存在が、そのダンスが、このまちに自然に溶け込んでいるからかもしれないし、このまちにいるひとたちの、遠い過去からの、もう忘れてしまっているけれどたしかに沈殿している、記憶に溶け込んでいるから、無意識がもたらす残像か、見慣れてしまってあまり気にしない傷跡のように感じているのかもしれなくて……というようなことを考えているうちに、わたしも、あるいはわたしの水も、鴨川を、川を、すっかり思い出して、想像している。ここまで流れこんできている。
やがて映像のではない、実際の松本さんが信楽のたぬきを抱えて現れる。舞台手前にたぬきを、ショートパンツの背にはさんでいたペットボトルの水を舞台の奥に置く。わたしはたぬきは何の喩だろう?ペットボトルの水は、あるいは鴨川の水…?たぬきはどれくらいの重さなんだろう?たぬきの中にもあるいは水が這入っているのかしら…?などとぐるぐると考える。
「こんにちは、 松本奈々子といいます。」という声が、実際の松本さんを目の前にしながら、音声アプリの声で語られる。そのことで、いま目の前に在る松本さんの身体が、少しく虚構化されるように感じる。あるいはそれはアプリではなくて信楽のたぬきの声なのかもしれない。あるいはペットボトルの水の(あるいは鴨川の水の)声かも、などと……。
松本さんが客席に、そのひとりひとりへというように、順に視線を向け、順に手をさしのべて踊りへと誘う。ともに踊ることへと誘う。「わたしたちはステップを踏み出しその仮想の重心をフロアに移動させてゆきます」と語りかける。わたしは「重心」という言葉に、いまその言葉を始めて聴いたかのように躓いて、「重心」とはなんだったか? ともかくも松本さんとわたしの間にある水をこぼさないように気をつける。
しかしワルツなど踊ったことないのでどう踊ればよいかわからず(想像上でも…)、まごまごしていると、そんなこちらの想像の動きを察知したかのように松本さんも動きをとめて、これからレッスンを始めるのだという(そののちに、もう一度踊るのだと)。
語りと松本さんの身体とが、目の前の何もない空間に鴨川の風景を立ち上げていく。鴨川で語り合う恋人たちとランニングするひとの間をぬって松本さんが踊っている、と、突然、夏目漱石があらわれて、川向こうのひとへ読んだという句が詠まれて、時間が歪む。句を読み川向こうへと視線を、想いを投げる漱石のかたわらを松本さんがワルツを踊りながら通り抜けていく。
あるいはさっきのひととき松本さんが漱石だったかもしれない。
東山ダンスホールでたくさんの群衆のなかで一人の女の人として松本さんがだれか(漱石かもしれない)とダンスを踊っている。
見様見真似で社交ダンスを踊り、祇園から東山ダンスホールへと男性客を連れ出したという、「ダンス芸妓」と呼ばれた舞妓さんについて、それがじきに猥雑で不道徳として禁止された歴史について語られる。「正しい踊り」とは何かと問い、わたしたちに想像することを促す。「あなたたちの踊りは正しくないことを想像しなさい」「あなたたちの身体はコントロールされなければならないことを想像しなさい」「あなたたちの鍛えた芸を披露できなくなることを想像しなさい」「あなたたちの身体が猥雑なものとみなされることを想像しなさい」……と。
ここから、松本さんの個人史、ダンスをめぐる記憶、身体の感覚の変遷と、「ダンス芸妓」たちの記憶、彼女たちが被った受難とが二重写しになるが、同時にわたしたちもまた、わたしたちの個人史だったり、いまの社会情勢、世界情勢などをそこに重ねている。芸を磨くこと、生きていくこと。コントロールすること、コントロールされること。踊らされること、踊ること。賞賛されること、貶められること。見せること、見られること……。このまちの歴史に埋もれかけていた無数の身体の無言の声たちが、松本さんの踊りの、身体の言語で、再生されていく。息をのむ。
ここまでが「Lesson 1」で、つづく「Lesson 2」では、松本さんは舞台の隅のマイクスタンドにて、朗読をする。「ワルツの起源」だという、川と笛をめぐる神話のような民話のような、寓話のようなエピソード。ここで始めて生身の人間の声による朗読にふれ、朗読もまた、声によるダンスなのだとはっとさせられる。「想像する」モードになっているわたしたちは、挿話の中にでてくる笛の音を、あたまのなかで再生して、ありありと耳にしている。
松本さんが鴨川に足を入れる、水の冷たさをわたしたちは想像する。わたしは冬の鴨川に這入ってしまったことがあって、それを思い出して足もとがふるえる。松本さんは水面を手で撫でる。すると、ビニール袋が流れてきて、松本さんは鴨川にて、ビニール袋と踊りはじめる(見えないビニール袋と……!)。ビニール袋は何かのたましいのように、なにかのぬけがらのように見える、それと踊る、それを、いつくしむように、松本さんは踊っている。ビニール袋と。川底に円をつくって。川の時間を時計化するように。わたしたちはべつの時空の、だれかといっしょにそれを眺めている。見惚れている。「川の中に仮想の重心があると想像してみてください」といわれる。重心とはなんだったか。しかしたしかに、松本さんと、ビニール袋と(それが暗喩する、さまざまのものたちと)、わたしとの、中心点、あるいは結節点として、それらがワルツを踊っている、円のまんなかを想像してみる。
ビニール袋と踊る、松本さんの身体が、ここに川を現前させているので、いま座っている、わたしの胸のあたりまで、川が正面から流れこんできて。
つづく「Lesson 2.5」では、松本さんは舞台からはけて、音声もなく字幕のみで、2020年に松本さんが(そしておそらく似たようなことをわたしたちもまた)多かれ少なかれ経験したかもしれない、書き換えを余儀なくされた身体の違和、重さ(あるいは軽さ)についての語り、隔離を余儀なくされた大切なひと、松本さんにとってはお祖母さんとの、電話でのエピソード、あまりにもプライベートなため見せられないという、ダンスが語られる。それは見ることができないゆえに、わたしたちの想像を、わたしたち自身の記憶の深い、やわらかいところへと導く、わたしたちの記憶のなかに眠っている(ダンス)へと。
そのとき病室で祖母が踊ったことがあったことをわたしはおもいだしていた。手だけ、だけれども……。横浜の(そう、折しもここ、横浜……、)女学校のときのことを思い出しながら。変わった体育の先生がいたのね(大野先生といったの)。体育の授業だけど、ダンスの授業しかしなかった。すごくおおきな、きれいな手だった。その手が踊った。踊って踊りを教えてくれたの。こんなふうにして。……。わたしはそれをぼーっと眺めていたけれど(祖母がまねするそれは、なんだか盆踊りみたいだった)、いっしょに踊ればよかった、といまになって、始めておもった。いっしょに踊ればよかったなあ…!だから、わたしは想像した。病室で、祖母とワルツを踊っている。さっき松本さんにおしえてもらったワルツのステップと、むかし祖母が大野先生におしえてもらった手の踊りを、くみあわせてもいいかもしれない。やっとそう決心がついて、手をのばして、祖母の手をとった、……とおもったが、わたしは川面にふれていたのだった。
場面は「Lesson 3」にかわって、松本さんが信楽のたぬきを抱えて、信楽のたぬきを舞台のまんなかへと。いまは信楽のたぬきと向かい合っている。昭和10年に鴨川が氾濫して、先斗町に「ぽん!」と鼓の音とともに到来したたぬきと。今度はそのたぬきと、あるいはそのたぬきを、踊っている。松本さんが踊っているので信楽のたぬきも踊っている。信楽のたぬきが松本さんを踊っているのかもしれない。たぬきが松本さんに化けて踊っている、楽しそうに(信楽のたぬき楽しそう……!)。(いまふりかえると、)序盤の美しくも生硬なワルツから遠く離れて、いまはたぬきが化けた、あるいはたぬきに化けた、あるいはたぬきの化けの皮がはがれた、松本さんが信楽、楽しさこそが信というように、信楽の狸と、信楽の狸を、踊っている!踊っている!これは信楽のたぬきの松本さんだけの踊り!信楽のたぬきにしか松本さんにしか踊れない踊り!見られていることの喜びの信楽!見ることの喜びの信楽!見られることの見ることの共に踊ることの喜びが信楽!……しかし、じきに見られることの視線の重たさに気づく(信楽のたぬきの重たさ……)。
松本さんが見ることと見られること、現実と虚構、快楽と苦痛を往還するように、円を描きながら、その円環の只中へと、その重心へと、わたしたちを、わたしたちの想像へと、いざない、手をさしのべながら、現実と虚構を、快楽と苦痛を、円を描きながら踊っている。
「わたしは川の重さが自分の身体を通り抜けるのを想像します」と語られるとき、わたしたちのなかにも川が、その重さが、流れこんできて。重心。
いまはわたしたちの視線の重さが松本さんを踊らせていることを知って、そのあまりにも美しいダンスに魅了されることに罪悪感の重力を感じながら、ダンスというもののこれまでの歴史の、それにまつわる身体の、人間の、その存在のあまりの重さと複雑さとに打ちのめされながら、そのたぬきではなかったという証のように、汗ばんだ生身の人間の鍛え上げられた身体の美しい、あまりにも美しい躍動を、逡巡も葛藤も、生きることの踊ることの清濁を、途方もなく、かけがえのない歴史を、飲み込んで流れる川の滔々を、まのあたりにして、あらためて完膚なきまでに魅了されてもいる。つまり、引き裂かれている。そんなわたしを信楽のたぬきが凝っと見つめている。見つめている。
***
〈追記1〉
ところで、チーム・チープロのもう一人のメンバーであるドラマトゥルクの西本さんについて。この京都という土地とワルツをめぐるレクチャーでありナラティブであり(そして詩でもある)あまりにも多層的で複雑な、豊饒なテキストを裏打ちする、多数の「参考文献」(ハンドアウトと共にその一覧が配付された)、その膨大な情報の収集を、足と手を駆使してリサーチした西本さんの身体感覚も(松本さんもここにも関わっているとおもうけれど*)、この公演の表面には見えない川底を流れ、支えていて、「チーム」であることの水流の豊かさを感じさせる。
*文献リサーチもフィールドワークも西本さんと松本さん、二人で行っているとのこと。
〈追記2〉
フライヤーからハンドアウト、本編のテキストにいたるまで、バイリンガル表記を徹底していることで、ここにも広く、他者(という川向こう)へと橋を渡そうとするこのチームの強い意思が表明・表現されていると感じる。
〈追記3〉
テキストにおける「想像します(We imagine)」のリフレインはヨーコ/レノンを彷彿とさせるけれど、わたしは今回の公演を見ているあいだオノ・ヨーコの「カット・ピース」を思い出していた。舞台上に座るヨーコさんの服を観客一人一人が手渡されたはさみで切り裂いていく……。見たのは映像だけれど、折しもこれも横浜で、2008年の横浜トリエンナーレのときに。その後、真似をして見たことがある。そのとき刻みつけられた恐怖の感覚を思い出し、想像のよすがとした。2022-23年現在、わたしたちの川の向こう岸に戦火は上りつづけ、コロナ禍は川の両岸で未だつづいている。
(2022年12月5日、STスポット)
執筆者プロフィール/カニエ・ナハ
詩人。2010年「ユリイカの新人」としてデビュー。2015年エルスール財団新人賞〈現代詩部門〉。2016年詩集『用意された食卓』で第21回中原中也賞。詩を軸に他ジャンルとの境界面にてさまざまな活動を行っている。